眺め

それほど親しくはしていない、何回かお会いしたかなくらいの方から急に連絡があった。恐らくSNSの投稿を見て、感じるものがあったのかも知れない。

河合隼雄さんの本をちょびちょび読んでいる。吉本ばななと河合隼雄の本、柳田国男と河合隼雄の本を読んだ、(敬称略)コンステレーションという言葉、コンプレックスという言葉が何となく思い浮かぶ。悩んでいる、苦しいなあと思っている時はそれを眺めていられる人と一緒にいるのが性にあう。

以前、大学4年生の時、明電舎という会社の最終面接に落ちた。コンデンサ技術を武器にして、様々な電源供給をつなげるスマートグリッドの取り組みをやっていたり、離島に電気を供給するなど、技術を使って社会に還元する取り組みをやっているのが素晴らしいなと思った。OB訪問した時も朴訥とした人柄の方とお会いした。また、会社の社長が学生の説明会に来て、本音で話していた。本当にいい会社なんだなと思った記憶がある。

学生なりに本気で探して見つけた会社だったから、面接落ちた時は超落ち込んだ。他にも受けていた会社はあったけど受かる保証は無いから凄い不安だった。そんな時、誰からもほっといてほしくて、ネガティブな気持ちをきちんと味わってから次のポジティブに向かいたいと思っていた。かさぶたが治るまではほっといていてほしい。

そのとき、母が「落ち込んでいたら、受かるものも受からないよ」と檄を飛ばしてきた。やめて欲しかった。治りかけのかさぶたを無理矢理はがしてマキロン塗る感じだ。

そうやって、マキロン塗ろうとする感じは今も本質は変わっていない。

コンプレックスはかさぶたのあとみたいなものだ。私も同じところに星のあざがあるのみたいな、ジョジョ的発想がコンステレーションだ。きっと。星座だし。

たまたま連絡がくるのって、そういう星回りなんかも知れん。ただ、自分の悩みや苦しみは自分のものだから、他の誰かが解決出来るものではないんよね。

話を聞いて、そういう考え方もあるのか的に眺めていられる環境がいいです。

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君は天才だ。自由に生きていい

5年くらい前に初めて入ったバーに最近また通い始めている。

初めて通い始めた頃、似顔絵を描いて生計を立てている同じ年の人がいた。上手かったし、かっこよかった。

今は自分がよく似顔絵を描くようになった。

何でだろう?何がきっかけだったんだろう。あんまり覚えていないが、新人歓迎会で色んな人の似顔絵を描くというのをやって、楽しかったからかも知れない。

その前は、ミャンマーに行ってしまう友達の為に似顔絵を渡すというのをやった。

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ポストカードを使って、写真を見ながら描いた似顔絵が思いのほか喜ばれて嬉しかった。

それから、色んな場面で他人の絵を描くのを武器にしてコミュニケーションしたけれど、かなり良かった。言語化出来ないところで分かり合えるような気がしたから。

僕が描いた似顔絵が、誰かをつないでくれる。心の琴線に触れる、何かの力を持っているんだと。

先日、お世話になったイケさんの「お別れ会」に参加したとき、色んな人が来た。5年前に通い始めた頃の人も来た。昔と今がごっちゃになった。その真ん中に自分の絵を飾ってもらった。

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頼むけど、色紙の真ん中に絵を描いてくれるかなと言われて、絵を描いた。

イケさんのお姉さん(色紙を持っている人の隣)ともお会いした。私の絵を気に入ってくれて、「このえくぼは、家族としてもすごいそっくりだなって思いました」と言って下さった。イケさんに本当に何気なく描いて渡した絵だった。イケさんのLINEの最後のプロフィールだった。

愛するって何だ?愛されるって?

何か特別なことをしなければと努力しないとその人はその人であることを認められないのだろうか。

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自分が与えられた役割が何なのか、ということをだんだん分かってきた。

その人が一体何を求めているのか?というのをメタなところで理解し、分かり易い形で表現するというのが、自分の求められた役割だ。

その為に一体何をどこまで分かっていないといけないんだろう。

この間、何日かぶりに、このバーに来た。VRとか見せてもらった日。

何年かぶりにお会いした(でもあまりにも酔ってて覚えてなかった笑)方の似顔絵を描いた。

 

その時に、奥さんの絵も描いたのだけど、「これは実物じゃなくイメージで描いているのに、内面の優しさとかそういうものが表現されている!」と、旦那さんはすごく感動されていた。

同じ人を描写していても、リアルタイムで描くことで、それぞれ違う味を出している。

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そして、一緒に来ていた接骨院を経営する若者に「彼は天才だよ!!」と何回も何回も言っていた。

その方は、目を見てこう言った。

「君はどんな生き方をしてもいい」

「自由に生きていい」

今までそんな風に面と向かって誰かに言われたことなんて無かった。

そうか、自由に生きていいのか!

ポストカードに描いてきた絵。ポストカードに絵を描くスタイルは、実は横尾忠則さんもやっていたそうだ。郵便局で働きたかったけれど、叶わなくて、ポストカードや切手みたいなものは好きだったので、それを素材に使っていたようだ。

(全くの偶然だが、イケさんは郵便局で働いていた。ある意味ポストカードがつないだご縁だ。)

全く別ルートから横尾忠則さんの真似を知らずにやっているなんて、やっぱり俺は天才なんじゃないだろうか?

その後も、「ありがとう!是非ためさんに描いて欲しかったんだ!!」と言って、バーにやってきた常連さんと話をした。

 

人に感謝されることをやろう!!

あとは自由だ!!

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個人はそんなに強くない

1人遊びが好きだ。何人かで砂遊びをするとき、誰かが作る山や運河と違うところに流れを作りたい人だった。登下校を一緒にする小学校の先輩たちも何となく遠い目で見ていた。昔から何となくシニカルだった。

人より何か出来るようになりたいという気持ちが強過ぎて、小1の頃に小学校4〜5年生の公文式の教材まですすめて、先生を困らせた。小6から入った中学受験塾は半年くらいで偏差値が60以上になった。

あふれる知能をもてあまして、何が出来るかを考える。自分でやってみたい、という思いが強過ぎて、そこに正直になろうとし過ぎると、苦しくなる。切り分ける必要がある。

色んな才能がある。それを全力で活かさないといけないと思う。

 

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先日、忘年会でいちばんお世話になっている先輩が酔って潰れた。酒が強い先輩で潰れたところを見た人がほとんどいないそうだ。ろれつが回らず、足元もおぼつかない。左右で2人かかえで先輩が掴んで歩いていて、自分は横でペットボトルの水を渡そうとした時だ。

こんな言葉が聞こえてきた。

「誰のせいだと思ってるんだよ?」

自分は今の仕事の覚えが悪い。要領も悪い。確認しなければいけないことをよく忘れる。予想外の事態にうまく対応出来ない。頑張らないといけないと思えば思う程、視野が狭くなって空回りしてしまう。とっさにどうしたらいいか、分からなくなる。

僕がどんな特徴を持っている人かどうかは、以下の記事を読むと分かり易いかもしれない。

なぜ発達障害者は日本企業で働くのが辛いのか?

自分は、発達障害と診断されたことは無い。メンタルクリニックに何度か通った時に、「中間のグラデーションにあたるところだろう」と言われたことがある。酷い人はもっと酷いのだ。

ただ、自分がこの記事に対して腑に落ちる以上に、回りの人は「あいつは変だ」と思っているに違いない。

そんな社会不適合者な自分に対して、気持ちが切れそうになりながら、この一年間自分を支えてきてくれた人だというのは、分かっているつもりだ。

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自分では精一杯頑張っている。と思っている。どんな風に役に立とうか、思いを巡らせている。

インシデントを起こしてしまった後に、自分の医療に対する考え方、感じ方が間違っているんじゃないかと思って、ロスの本を読んでみたり、患者の気持ちを汲み取るためのを手に取って読んでみた。

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しかし、日常業務で焦ると似たような失敗を繰り返してしまう。

今のままでは、負のサイクルにぐるぐると入り込んで、にっちもさっちもいかなくなってしまうんじゃないか。。そんな思いが頭をよぎった。

ストレングスファインダーの本の中で、腑に落ちた内容があった。

最後に、覚えておいていただきたいことが1つある。それは、天武の才なしで訓練を重ねると、進歩するどころか燃え尽きてしまう危険があるということだ。どんな分野でも根気強く取り組まなければ進歩は望めない。怠けたいと思う時も当然あるだろうが、その誘惑に打ち勝つにはエネルギーがいる。さらに、進歩しつづけるには進歩の過程そのものからもエネルギーを得なければならない。にもかかわらず、壊れた(シナプスの)結合の修復ばかりしていると、逆の現象が起きる。エネルギーの消耗だ。どれほど周到に計画を立てて訓練を行ったとしても、ぎくしゃくとした不自然な動きは改善されない。訓練を重ねれば重ねる程、無理を感じ、もどかしい思いが増すだけだ。そうなると、気力が失われ、再度取り組もうという意欲が著しく減退する。要するに、シナプス結合の修復は割に合わない無駄な骨折りということだ。(p.70-71)

もうこの仕事を辞めた方が誰にとってもいいんじゃないだろうか。と毎日思う。

他にも得意なこと、やってみたいこと、沢山ある。

MMP(Monday Morning Problem)という言葉があるらしい。

真面目な人は「できてない自分」「対応できていない自分」に対し「もっと頑張らなきゃ。みんな出来てるし」なんて思ってしまいますよね。でも上記のように具体的に何が MMP の原因になっているのかを良く分析してみることを僕はおすすめします。

そして一旦、自分自身を肯定してみることもとても大事です。

「ああ自分には向いてないんだな(無理なんじゃなくて)」と思えれば、向いていない部分を一つずつどうやって改善していけばよいか、という次のステップに進むことが出来ます。その改善のためには痛みを伴うかもしれませんが、やる価値はあるのです。一番いけないのは「あー何となく嫌だな」という状態でいることです。

そう。今の仕事も向いていないことは予感していた。どうにかして、向いていないことを避けたいと思っていた。

ただ、せっかく医療に片足を突っ込んだのに、医療現場を見ないままでいるのは、野球のルールも知らないのに野球について語るみたいなところに近いのではないかと思ったから、医療機関に就職してみた。

もう、現場の空気感を知る為だけだったら、もう十分じゃないかな、、という気持ちと、もう少し頑張ってみないと、本当に医療を理解したことにならないんじゃないか、という気持ちがないまぜになっている。

もう、何となくキレてしまいそうな感じだ。疲れた。

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たましいの場所

題はこちらから。たましいは見えない。

「意識と本質」という本のなかで、「ビールといったらこの味だよ」というリアリティ(フーウィーヤ)と、「ビールとはそもそも醸造された〜」という普遍的特徴(マーヒーヤ)とがある。どっちがどっちかは人によって全然違う。

でも、たましいの本質って何だろう。河合隼雄さんは、現象学的にそういうものもあると考えた方がよくないか?ということを言っていた(と思う。そういうことじゃないと言われるかもしれないが)

「たましいの場所」という本は、大晦日だけ帰省した時にNorthLakeCafeBookで読んだ。著者は18歳〜21歳までロックをやって、辞めて「おじいちゃんになりたい」と言って、20年以上の間本屋をやっていた。それから本屋を辞めて、もう一度ロックを始めた。それが「たましいの場所」だったということか?まだ、読み途中の本の1つ。

もう1つ、読み途中の本に「『人間らしさ』の構造」がある。ここに書いてあるメッセージは、社会に適応するより自分の本心に適応しよう、師を持とうの2つにだいたい集約されていると思う。その方が生き甲斐を持てるから。そして、女性の生き甲斐は、現代というのは持ち辛いものなんだ、ということをはっきり言っている。本は昭和50年代、学生闘争があった頃の空気感で書いたものらしいけど、全然新しい。

昔、農村育ちだったのだが、畑仕事が嫌いで日雇いばかりしている人達がいた。知識労働がしたかったのに、「畑で仕事をしなさい」と言われて、つまらないまま、怠けたまま、貧しい人生を暮らしていた。いちばん活き活きしていたのが、会社の帳簿をつけていた時だと言う。

そして、ストレングスファインダーを読む。脳のシナプス回路の中にいちばんよく応答してくれる「T1ライン」がある。人それぞれの「T1ライン」があり、それに沿って生きた方が人生が楽しくなる。その人にとっての「会社の帳簿」にあたるものは何だ?

早く見つけた方が幸せになる。

 

 

 

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死ぬことにリアリティが無い

キュープラーロスの「死ぬ瞬間」という本の中で、大家族でみんなに見守られながら自宅で看取りをされるという場面がある。そういう死の瞬間に立ち合えた昔は、自分達がいざ死に直面した時の葛藤が今程強くなかった、という話だったと思う。

ある僧侶が、季節柄、秋から冬の寒暖差が激しくなる頃は、葬式が増えるという話をされていた。病院でも同様にAutopsy Imaging(AI)の目的でCTを撮影することが多くなる。電子カルテやRISの中によく見ると名前の後ろにピリオドが付されている時がある。死のメタファーである。

他の人よりも他人の死に近いところで働いているが、死の瞬間に立ち合うことは無い。その前のタイミングに細切れに立ち合うことはあっても。今日出会った人がその日のうちにピリオドが付されていた時もある。どんな顔をしていたのか、思い出せない。

河合隼雄さんがよしもとばななさんに文通で質問された「大切にしている本は何ですか?」という答えに返していた「意識と本質」という本を読み始めた。難解過ぎて50ページくらいしか読めていない。その50ページで書かれていたことは、◯◯というものがあった時に、それが本物であると一体どうやって証明出来るのか?ということだった。

本物の◯◯というとき、どんな特徴があるのか、どんな条件を満たしているのかを言葉で表す方法と、「これしかない!」というリアリティの2面性がある。例えば、母親とは?と言われたら、「自分を生んだ人」という定義が出来るが、自分にとって、母親はこんな人だったというリアリティがある。もし、毒親に育てられた息子が、大人になっても仲のいい親子を見た時に、母親のリアリティは無い。経験したことが無ければ仕方無いのかもしれない。

では、死ぬことについてはどうなのか。死んだ経験が無いから、他の人の死ぬ前の色んなプロセスにどう向き合えばいいのか分からない、というのは駄目なんじゃないか、と思うことがある。そのせいで、色んな問題が発生してしまうんじゃないかと。目の前の人の検査や治療手技にのみ集中してしまえば、目の前の人は丸太と同じになってしまう。

この人の生き方、死への向かい方は幸せなのかどうか、気にしていることが大事だと思う。違和感を覚える時もある。一緒に来ている人が、患者さんのことを他人事として扱うのを悪びれない時、心の底が寒くなる。やりきれないなあ、という気持ちをだんだんとためていく。

死に向かうというのは、さなぎに近づくということかも知れないと思う。ロスは死んだ人のたましいが蝶になって飛んでいくと言った。そのことを、バーで話したら、自分の親の葬式に思い返すと、それを象徴するようなことがあったといっていた。

河合隼雄さんは、晩年脳梗塞で倒れて、1年間昏睡状態のちに亡くなった。「さなぎ」になったのかも知れない。生きている身体には、年輪のようにその人らしさが現れている。亡くなってからもひげは伸びる。

リアリティを日々求め過ぎても、辛くなるだけだけど、立ち止まって考える瞬間が欲しい。

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professionalとevangelist

この前Facebookの知り合いの医療人が、職業観について語っていた。今、ドローンやAIやIoTなど医療でも新規ビジネスを絡めていこうという取り組みが多いが、圧倒的成長を目指したり、破壊的イノベーションを目指していくというビジネスの論理が裏目にでてしまう場合がある。

マネタイズを意識し過ぎると、結局金儲けの為にやっているんですかということになってしまうからだ。世の中に広めていくことは大事だが、必要以上に売り込むことは、現場観を見失ってしまうのかもしれない。

医療で人を救うには、患者様を非日常的な機械の中に身を置かせる時に危険が無いようにすること、どういう時に病気が疑われ、確定診断がつき、もし病気だった時にどう対処すればいいのか、ということを今の最善の手段を分かっていないと意味が無い。

そう言う意味で、医療は神様に告白(profess)するように、正しいことを間違いなくやっていく積み重ねの中にある。今のキリスト教徒の多くは、週末の礼拝の時にだけ信仰に酔う、というのを聞いたことがある。自分は「無神論者」だから、医療の世界で言われている正しいことを素直に受け入れられないまま、ここまできてしまった。

professionalになる為には、これまでやってきたことが本当に正しかったのか、間違っていたらどう直していかなければいけないのか、といったことを1つ1つ孤独に突き詰めていかなければいけない。

学校の先生にprofessionalになりなさい的なことを言われたのを今でも覚えている。

一方で、医療にそもそもアクセスしなければ、自分が病気かどうかも分からない、治療もされない群がある。高血圧の治療は、半分以上が断念しているという話も聞いたことがある。そう言う人は、いくらこちらで完璧なprofessをしていたとしても、あぶれてしまう。

何が分かって、何が分からないのかを明確にすると言うか、「伝導する人」=evangelistの存在が必要だと思う。自分はそっちの方が向いているんじゃないかな。。

医学部を卒業後に医師にならずに、文筆家、メディカルライターになっている人を面識は無いが知っている。そう言う人は、evangelistをやっているのだ。

ルターやカルヴァンの時代、16世紀頃、キリスト教を伝導する為に舟でヨーロッパから日本にやってきたのはザビエルだし、その前は、インドで発祥した仏教が日本に伝導された。航海術が今程発展していない時代に、自分達の命をなかば投げ打ってまで、何かを伝えにきたのだ。

そこには、ビジネスの金儲けの論理は入らない。

小乗仏教と大乗仏教の違いではないけど、元々粛々と宗教信仰(profess)していた人達よりも、何かを伝えようと動いている熱意のある人(evangelist)の意見に心を動かされることがある。

内に秘めた思いや考えを知ってもらい、見えない世界の扉を開いた方が、正しい宗教の在り方を強要するより影響力が大きい。そうして、宗教の亜流が広がっていく。

自分は、professionalになれるのか全く自信が無いけれど、何かのevangelistくらいなら、出来るような気がしている。

もし、professすることが難しいなら、evangelistになるのがいいのかもしれないな。

 

 

 

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